同年代の男性から立て続けに「おっさんが嫌い」発言を聞いた。
「うん、私も。」と共感しつつ、同時に不思議な気持ちもした。
まず、ここで言う「おっさん」とは誰のことか。さきの男性に確認したわけではないけれど、単純に年齢のことだけを言っているのではない。ネットなどで改めて「おっさん」を検索してみたところ、良いイメージのない中年男性を指すようで、「上から目線、えらそう、非を認めない、お礼を言わない。」などなどの特徴を持つよう。
従来思考を変えられないおっさんの存在が日本社会の停滞の原因の大きな一つ、というニュアンスを感じている。
私的には、「みぞゆう」って読んだおじさん、あの人みたいな人のことかなと思っている。
それで、なぜ不思議な気持ちになったかということだが。
そりゃあえらそうな人は私だって嫌い。けれど、嫌いな人物選として、取り立てておっさんを意識したことはそれまでなかった。
なぜなのかな、と考えてみたのだが、これまで自分にえらそうだった人は、おっさんに限らなかったからかな、と思う。
おばさんのことも多々あったし、若い男性や若い女性だったりもしたし、職業も様々、通りすがりのときもあった。ような気がする。まあどの程度をえらそうと感じるかも個人差があると思うけれど、つまりここで何が言いたいかと言うと、自分にとっての冒頭の「おっさん」的属性の人間は中年男性に限らなかったということ。
おっさんがえらそうに振る舞う人間からもえらそうに振る舞われるのが自分だったのだと言うこと。
自分が女性だった、ということは大きな要因だったのかな、と思っている。
とは言え、個人差もある。なめられやすそうな態度とってたんかな、と思う。でも同時に、ああ気づいてなかったけどやっぱり女性って、社会的な地位低いのかもとも思うのだ。
なぜこんなことを思うようになったのだろうと考える。
中国で生活していたことは大きいと思う。
別に中国だけではないと思うけれど、海外はたぶん買い物などの場面で日本のように優しい(まあ単にマニュアルなだけ感もありますが)サービスはあまりなく、注文ミスとか不良品とか、何かしらのトラブルでおとなしくしているわけにもいかず、見知らぬ人にいきなり鋭い視線を浴びせたり、場合によっては怒りを見せないといけないこともあった。
また、ラインがある日いきなり使えなくなる、などの大きな制度変更がなんの説明もなくある日突然起こったりもした。
身の回りの意識もしていなかったことが、当たり前ではない、ということを肌で感じた。疑いを持つようになった。
ま、でも自分が年を取ったということが一番の原因だとは思う。図々しくなったのだろう。
えらそうに振る舞われても、とっさに反撃できるように常に心構えをするようになった。とはいえ、反撃するのは疲れるし、反撃しないのも気分が悪いので、いきなりえらそうに振る舞われそうな場面は極力作らないように気をつけている。
電車の中でぼんやり立たない、とか、荷物の置き方に注意する、とか、なんなら常に姿勢をよくしている、とかそんなことである。
ルールに対しても冷めた気持ちを持つようになった。別に積極的に破る訳では無いが、法律でも日常的な社会の決まりごとでも、なぜその決まりが存在しているのか、真意を考えるともなく考えることが多い。
自分の子どもたちを見ると、決まりを守ることに本当に誠実なことに感心することがある。
ここは食べ物を持ち込んではいけないとか、右側を歩くとか、その場の決まりをいちいち把握して守ろうとする。
「そんなもん別にねー、向こうが勝手に作った決まりなんだから、適当に合わせときゃあ…」
今思っても、私はなんら間違ったことを言っていない自信があるのだが、子どもたちは私のこういう世の中全部嫌いモードを非常に毛嫌いしていて、その後の私の発言は一切受け入れない体制になる。
そう、こういうのを説教と言うのだ。
上から目線のおっさんが権力を振るわれるおばさんなどに踏みつけられた最下層の女子だった私が、長じて図々しくなり、自分より若い人間に説教をする。オバハンになっている。
いかん。地獄だ。
自分を変えない人になってはいけない。
若い人の話を聞きたい。
相手と接して、それによって自分を変えていく。相手が人間でも自然でもそれは同じ。柔軟に変化できる自分が都会から自給自足を始めます。