先日、娘が友達の家に遊びに行って、カルチャーショックを受けて帰ってきた。それは。
「〇〇ちゃん(友達の名前)の家には、〇〇ちゃんの赤ちゃんの頃から今に至るまでのたくさんの写真が飾られていた」とのこと。
…気がついちゃった?
子どもの写真を飾る家の割合は多いのかそうでもないのか、よくわからない。でも体感として少ないということはないような気がする。
訪問した家で家族の写真を飾っているのが目に入ると、とても印象に残る。なぜなら、私が全く家に写真を飾らないから。
そして、なんとなく後ろめたい気持ちになる。なぜ、自分は全く子どもの写真を飾る気持ちが起きないのだろうと。別に、飾らない!とか強いこだわりを持っているわけでもない。単にそういうことを思いつかないのだ。
でもまあ強いていうと、写真はその時点でもはやただの絵で、生きて動いてかわいいことを喋ったうちのあの子どもではもはやない、ような気がする。
楽しい思い出があったとして、そのときに撮った写真があったとして、私が想起したいのは、生きて動いて喋ったあの光景で、あの時に聞こえた音やにおった臭いや、食べた物とか、身体が感じた感覚であって、止まった絵ではないんだよな。
下手に写真があったりするとその写真の絵に引っ張られて、その時に見たもの、聞いたもの、思ったことなどなどの身体的な感覚がなくなるわけではないのだけれど、何か違った、後づけされたような記憶になってしまうのではないかな、と無意識に感じるから、写真はあえて飾ろうとしないのかも…というような気もする。
とはいえ、娘に「〇〇ちゃんは親に愛されてるなって思ってうらやましかった」と言われると、すいませんドライな親で、としか言えない。
でも、じゃああなたも子どもの頃の写真を飾りましょうか?と娘に聞くと、「いえ!それはけっこう!!」と固辞された。
まあそんなもんですよね。
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