宇根豊さんという百姓であり思想家という方を最近知った。宇根さんの語る言葉にピンときて、宇根さんの本を読んだ。読んだのはこちらの絵本。
絵本と言っても、田んぼの生き物、植物、田んぼにまつわる文化、生態系のこと、非常に詳しくわかりやすく書かれた読み応えのあるシリーズ。
この絵本の中で、宇根さんが表現される、米を作る百姓の、生き物や植物に対する気持ちに非常に共感した。
「百姓」という言葉も、敢えてなのか当然と思っているから使っているのか宇根さんの著作を多く読んだわけではないのでわからないけれど、農家とかではなく百姓と呼ぶのも米づくりを生業としている感じが伝わってきて良い。
百姓が田んぼで米を作るために様々な作業をすることで、生き物にたくさんの影響を与えている。たとえば水のはった田んぼを歩いて足跡ができると、オタマジャクシはその足跡に集まる。周りよりもわずかに深くて少しだけ温度が低いから。畔は真ん中と田んぼのキワで生える草の種類が違う。真ん中とキワで通る頻度が違うから。
そういった、自分が生き物に対して結果的に影響を与えていることを百姓自身はあまり気に留めていない。じゃあどうでもいいのか。そんなことはない。春に畦に春の花が咲けば美しいと思うし、間違えて蛙のすみかを奪ってしまったら思わずごめんねと言う。
さらにじゃあ、春の花や蛙のためにわざわざ良い環境を作ってあげるか、もちろんそれもしない。
でも百姓は、米を作る目的は自分たちが食べるためなのだけれども、同時に周りの生き物の存在も認識しているし、それを好きだと思う気持ちもある。
・・・だいぶ前に読んだので、そんなこと書いてないという部分もあるかもしれないけど、だいたいそんな解釈で拝読しました。
宇根さんが表現する米を作る「百姓」の自然に対する感覚。すごくしっくりした。
自分の感覚とほぼ同じだ、と思った。
私も、自然すばらしい、自然美しい、礼賛!!とまでの情熱はない。道の花がきれい、とか、空気が澄んで気持ちいい、とか、ちょっとしたときうれしい。そんな気持ちにしてくれる生き物や自然が好きだ。
だけど、それ以上に何かしようとは本来は思わない。
あまりに自然が壊されているので、なんとかしないといけない、とは思うけれど、自然は美しい!守るべき!親しむべき!みたいなわかりやすく強い主張は、なんだか学校の先生に言われているような気持ちになって背中がもぞもぞする。
そういうはっきりした主張ではない、目の前の、自分の身の周りのせいぜい数キロ、自分の足で行ける程度の範囲の土地や自然に対する愛着、身近な動植物を好きだと思い、一緒に生きる。
郷土愛、という言葉が今のところは近い言葉かなと思う。そんな愛着は自分の中にある。
そしてそれは愛国というものとは違う、全然。国境線などというはっきり引ける区切りの土地に対するものではない。
自分の生きる土、生態系のある環境、それらに対する身体感覚を伴った愛情。
その愛情の対象は確かに、現在の日本国の国土の範囲とほぼ近似だとは思う。
でも愛国という概念自体、19世紀の西洋で生まれた近代ナショナリズムに根ざす比較的新しい思想で、国民国家という枠組みを前提としている。
外から持ち込まれた感覚と、自分自身の物心着く前から自分の中で自然と育んできた郷土愛(と仮に呼ぶ身体感覚を伴った土地に対する愛情)をいっしょくたにして雑に主張する言説の多さに、実は昔からちょくちょく背筋がもぞもぞしていた。
宇根豊さんは、そんな私の背筋もぞもぞをすっと取り払って、私の自然なこの列島に対する愛着を言葉にしてくれた。