子どもが修学旅行で長崎に行き、お土産にスノードームを買ってきてくれた。
旅先にスノードームが売っていると、買ってくる。我が家には自分でも忘れるくらいの地味なコレクションがある。
左から、広州市、万里の長城、那覇、宮古島、黒部ダム、そして今回のハウステンボス。
上の球の部分は同じ規格なのか、どこで買っても同じような大きさで、バラバラに買ってきてるのにシリーズのようになる。旅先では必ずお土産屋さんで探す。意外にあるし、意外にない。
単なる飾りとしてのスノードーム、例えばサンタさんが入ってるのとかには興味なく、地名が書かれているご当地物限定でスノードームが好き。
私は、いなかに引っ込んでひっそりと世捨て人のように晴耕雨読的生活をすることに憧れを持つと同時に、常にどこか遠くに旅をしたいなとも考えている。
どこかにとどまってそこでじっとして生活することと、フラフラと色々なところを旅すること、反対のことを同じくらい望んでいる自分が、とても軽薄で、いい加減なことを考えているなと後ろめたいような気持ちでいた。
どこかに行きたいの、じっとしていたいの、結局どっちなの。相矛盾することを考えているがゆえに、一つ一つの願いは、結局は現実逃避の思いつきに過ぎないのではと自分で自分が信じられなくなってしまっていた。
しかし、ある時ユーチューブ番組で、ある社会学者が、旅をしたいというのは人間の根源的欲求なのだといったことを聞いた。(ような気がする。具体的になんと言ったのかは覚えていないのだけど)人間は食べ物を蓄えることができるようになる以前は食べ物を求めて、常に生活する場所を移動していたから。
食べ物を作り蓄えることができて定住できるようになってからも、常にどこか知らない場所に行きたいという欲求は人間の遺伝子に組み込まれているのだ。(社会学者が本当にそう言ったのか私がそう解釈したのかはもう忘れてしまったのだが)
それを聞いて私はとても納得して同時に安心した。
私の相矛盾するような気持ちは、人として自然な欲求なのだと思えるようになって安心したのだ。
お腹が空いたとか、トイレに行きたいとか、音楽が聴きたいとかと同じように、いなかで静かに暮らしたい、も、行ったことのない場所に旅をしたい、も人間らしい気持ちのようだ。
根源的な欲求を自覚できるのはとても良い。なぜならその欲求を満足することができれば、他の余計な欲求が次から次へと湧き上がることはないから。
自分の食べるものやエネルギーをなるべく自分で作り、他の人と関わって、時々ふらりとどこか遠くに旅をする。そして元の場所に帰ってくる。
そのうち私は歳を取って遠くには行けなくなる。でも大丈夫。誰かが私のためにスノードームを買ってきてくれて、私はそれを見ながらその人が旅してきたところを心のなかで旅をすることができる。
自分の身体を動かし、心も使うことができる。とても人間的な生活だ。
そんな人間的な生活、今すぐにできることもたくさんあるし、首都圏を出ればもっといろんなことができるだろう。
これからが楽しみである。
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