私の子どもは高1と中1です。
年齢的にいろいろ難しいことはあるけれど、赤ちゃんの頃や小学校あがる前くらいのころに比べたらそりゃあもう比較にならない、今私、自由です。
街などで、子どもがぐずってもよーく話を聞いてあげてるお父さんお母さんなどを見かけると、深く尊敬する。そして、自分がいかに自分の子どもにひどいことをしていたかということを断片的に思い出しては、どう子どもに謝ったら良いのだろうと途方に暮れる。
自分で言うのもつらいのだが、あの頃の私は、子どもがいるからやりたいことができない、と思っていた。
でも、今にして思うと、「やりたいこと」とは、「やらなければならないこと」に近かった気がする。
やらなければならないこと、といえば、まずは、家事。こどもに食事を作らなければならなかったし、めちゃくちゃ散らかるから掃除をしてもしても追いつかなかった(ような気がしていた)
そして、もう一つ、私は「丁寧な暮らし」がしたかった。例えば何かを縫って作るとか。洗濯は石鹸を使うとか。まあ、こんなタイトルのブログ書いてくるらいだし、そういう傾向は昔からあった。でもそれはやりたいというよりも、環境に負荷をかけない生き方をしなければならない、という気持ちだったような気がする。
何もかも時間が足りなかった。追い立てられていた。それにイライラして、子供のせいにしていた。
あの頃の私にもし伝えられたら、こう言いたい。
何もかもやらなくていい。子どもを見ていればいい。
家が虫わくレベルで汚くても別に死なないし、だいたいそうそう虫わかないし。小さい子どもが食べる量なんてたかがしれてるんだから、大変なときは子どもが食べる分だけ買うなりなんなりしてもいいから、子どものことだけ見てればいい。
子どもってすごい。どんなに小さくてもその年齢なりに、物事を完全に理解するシステムを持っている。
この前、札幌で大切なお友達と十数人であった時に、小さな子どももたくさんいたのだけど、すごく面白かった。
まだしゃべれない赤ちゃんも、そろそろ幼児かな?くらいの2歳の子も、それぞれに相手の行動を理解し、反応する。それは言葉ではなくても、じっと見ていればその子が何かを理解し反応していることが分かる。
子ども自身が、小さいけれど深い深い自然なのだ。
何もしなくて大丈夫だから、子どもという自然をよーく見て一緒にいればそれでよい。
とか言われても、無理に決まっとるやんけ、と怒られそうだけど。