橋本環奈ちゃんの黒歴史ならみんな知りたいだろうけど、45歳のおばちゃんの黒歴史なんて誰も興味ないと思うと、一般人というのはある意味気楽なものだ。私は以前公務員だったことがある。退職するまでを振り返るとがんばった14年と思うこともあるが、やっぱりあの期間は自分にとっての黒歴史と思ってしまうことを否定できない。
経歴
私は、2000年から2013年の途中まで某市役所に勤務していました。最初の5年は市民の方と接することが頻繁な窓口のある業務(市役所の1階にある部署)、後半は窓口のない部署(本庁と呼ばれたりする)にいて、途中子ども二人分で通算2年ほど育休を取っていました。
窓口業務のつらかったこと
お店でもなんでも、接客というのは大変。特に市役所というのは、本当に融通がきかない。意地悪したいのではないけれど、法律で決まっていること以外はできないのだ。あの書類がなくてだめ、ここに署名がなくてだめ、あなたじゃだめ、この日じゃだめ、あなたのケースだとだめ、前にいいって言った?うーん、よくよく詳しく聞いて調べたらだめでした、などなど。
今だったら、だめですって言うにしてももう少し相手の気持ちに寄り添う言い方ができたかもしれない。でも当時は若かったから、法律でこうならこうと通りいっぺんの説明しかできていなかったのだろう。だいたいのお客さん(市民)はきちんと納得してくれたけど、相手から怒られることもあったし、相手がちゃんと理解してくれないということに私はしょっちゅうイライラしてストレスを感じていた。役所の複雑怪奇な手続きをすんなり理解できる方がまれなのに。
本庁業務のつらかったこと
開庁時間は接客でバタバタとして、閉庁してたまった事務仕事をして忙しくしていると、接客業務のない部署が羨ましく思えてくる。1日机に座ってパソコンに向かっていられるなんて、なんだか楽でおしゃれに見えるな。この辺から黒歴史の始まりだ。私は希望して予算を扱う部署に移った。
意気揚々と異動した早くもその翌日、その希望は人生最大くらいの大失敗だったことを知る。
新しい部署は業務が難しすぎる上に、大量だった。
一つの市の予算を作るというのは、大変なことだ。市のある部署の一つの事業を行うかどうか、その事業が適正か、価格が適正か、の根拠は単に必要かどうかの判断ではない。法律的、政治的、地域的、様々な必要性からの予算要求が各部署から来るのであり、それらを取りまとめて、収入(もちろん借金も含む)の範囲内におさめて帳尻のあった予算書を議会に間に合うように年に何度も(本予算と補正予算)作る。そんな仕事に20代の私は、びびった。もちろん私が担ったのはその大業務の本当にほんのちょっとの部分。それでもプレッシャーだった。業務をほとんど理解できてないような気がして、つらかった。
ちょうどその頃結婚して子どもができた。忙しい部署を正当な理由で休めることになった。産休にはいり一点家にいる日々になり、初めての専業主婦状態の生活。このままいわゆる「丁寧な」暮らしを続けていたい、もう職場に戻りたくはなかった。
(初めての子育ては精神的に不安定になり、これはこれで子育て黒歴史なのだが、それはまた別の黒歴史回にて)
育休明けにつらかったこと
戻りたくはないけど、公務員辞める人なんていないという思い込みに微塵も疑問を抱いていなかったので(実際周りで辞めた同僚も見たことなかったし)1年ほど休んで同じ職場に復帰した。このあと想像されるつらさは、仕事の忙しさと育児の両立のつらさ、と思いきや、私は逆だった。予算を扱うその超忙しい部署は、みんな超いい人だった。私は担当から外され、部署の人の有給管理とか部署の文書管理とかメール対応とか、部活のマネージャーみたいな業務になった。短時間勤務にしてたし、気を使ってもらって軽い業務にしてもらったのだ。今だったら、イエ~イ、である。イエ〜イどころかウエ〜イくらいかも(意味不明)。でも当時の私は、プライドズタズタだった。ズタズタがバレたくないから、一生懸命ニコニコしていた。
じゃあバリバリ仕事したいのかよ、というとそういうわけではない。まだ2歳にならないくらいの子どもとずっと一緒にいたかった。家にいたかった。
結局私は、家で子どもと一緒にいたいくせに、仕事で必要とされないこともつらかったのだ。それは自覚していた。そしてそう思っていることが恥ずかしかった。そう思っていることをみんな知っているようでつらかった。そういうのを自意識過剰というのだ。
職場にいたくなかった。二人目の子を妊娠して、また産休にはいったときはほっとした。
上の子と下の子の差は2歳半。2人目の育休明けで職場復帰したあとは、前の復帰とは比較にならない大変さだった。小さな子が1人と2人ではこんなにも大変さが違うとは、そうなってみないと分からない。夫は一緒に住んでいるのに朝早すぎて夜遅すぎる激務民間企業勤め人だったため、平日は私のワンオペ育児だった。
つらかった。ワンオペ育児と、期待されていない職場。そんな精神状態の育児は、つらかった。
限界が来て、逃げ道があったから、逃げた
それでもやっぱり期待されていない軽い業務は、その方がよかったのだ。当たり前だ。子ども小さかったんだから。
予算を扱う部署は、育休2回も取って長くいすぎた。ついに異動した。
新しい部署は、結局1年しかいなかった。
そこは、前の所と違って育休なんて気を使わない、私の希望通り?の部署だった。ちなみにそこも接客業務のない部署だった。議会の対応なども必要な前のところに勝るとも劣らない忙しい部署。
新しい分野の法律も業務知識も、小さい子を抱えて勉強もままならない中、半年くらい経って上司に言われた。ある業務の(市民に直接関わる超でかい)システムの欠陥を直さないといけないから、来年度はあなたが担当になってね、SEさんと交渉して直してもらったらシステムの検証もしてね。
担当?一人で?どうやるの?やったことないんだけど。私。短時間勤務なんだけど。
無理。まじ。無理。
精神的に限界に来ていたと思う。それは誰に取ってよくなかったか。私ではなかった。一番の犠牲者は子どもたちだ。
私は子どもが小さい頃どんな子育てをしていたか、あまり覚えていない。でも子育てが楽しかった記憶がないのだ、ただ、つらかった。そのことが子どもが犠牲者である証左であると思う。この頃のことを子どもにどう謝ったらよいのだろう。今でも分からない。
夫がある日、中国に赴任になるかもしれないと言った。私は大学が中国文学専攻で第二外国語は中国語だった。中国で暮らしてみたかった。まだ「かもしれない」の状況だったのに、私は3月末で退職した。逃げたのだ。
中国での生活
中国での生活は楽しかった。子どもの友達のお母さんたちはいろんな人がいた。夫はほとんどが駐在員だけど、ママ友たちは来る前はいろいろな仕事をしていた。専業主婦の人もいた。
数は少ないけど、中国人とも仲良くなった。聞いてみると、成長してきた環境は自分と違うところもあれば同じようなところもあった。
私が中国で出会った「たくさんの」人々は、世界中の人の数から比べたら誤差みたいなもの。
それでも、「世の中にはいろいろな人がいる」というありふれた事実を、心から納得するくらいには出会えた。
私が仕事から「逃げた」のは、別に恥ずかしいことでもなく、風邪引いたの?くらいの、人にはどうでもよいありふれたことだったのだ、ということに気がついた。
主婦になると社会とのつながりがなくなるという、愚かな思い込みをしていたことを懺悔します。神よ許し給え。
女でもちゃんと働かないとだめよ、というようなことを母から繰り返し聞いていたのだと思う。母は定年退職まで小学校の教員だった。私は公務員を辞めることが本当に怖かった。公務員の仕事は大嫌いだったのに。
中国で5年弱生活して、さいたま市に戻ってきた。仕事もなく、緊張感もなく、精神的に余裕があると、あれこれ興味が出てくる。もともと内田樹先生が好きで、内田先生のツイートを見たくて10年以上前からツイッターのIDは持っていて、内田先生のツイートから芋づる式にリツイートも読んだり、思想家を知ったり、政治家を知ったり、あっちの分野の本を読み、こっちの分野の本を読み、、ということでいろいろ読むようになった。
仕事をしているときよりも、今の方が世界情勢が心配でたまらない。
別に、どういう立場であってもその人次第なのだ。まったく、世間が何か言うことにいちいち影響を受ける私は自分自身の思想など持たない本当に凡庸な人間なのだと身にしみて思う。
そろそろ考えるのをやめて、動いたらいい
頭で考えても、あまりいいことはない。好きなこと嫌いなことは私の頭ではなく私自身が最初から知っているのだろう。やっとそのことに気がつけたのだから、まだ体が動くうちになんでも思いついたことをやってみないといけないね。