11月26日に起きた、香港の高層マンションでの大火災、日本でも報道されて知っている方もいると思う。ブログを書いている今日の時点で159人の方が亡くなり、31人の方と連絡が取れていないとのこと。
日本のタワマンは1棟で建っているのが普通だが、中国の高層マンションは、日本のタワマンよりも高層のものも多く、同じ敷地に何棟も建っているというのが多い。火災のあった宏福苑も8棟からなる高層住宅だった。
中国人ジャーナリストで柴静という人がいる。以前は、中国国営放送のアナウンサーだったが、10年ほど前に中国の大気汚染のドキュメンタリーをネット放送して問題になり、今は海外に移住して、最近YouTubeでの活動を再開したらしい。
その柴静が、今回の香港での火災の生存者へのインタビュー動画をアップしていた。非常に衝撃的な内容だったので紹介したい。日本での報道では知ることのできないような、当時の状況を生存者の1人である李さんが語っている。

動画のタイトルは、「香港大火災の生存者:全ての人々は、生でもなく死でもなく、全てが消え去った。」
番組は、ジャーナリスト柴静が生存者李さんに当時の状況と、どのようにして生き残ったのか、を淡々と聞いているという内容。
李さんは本来広東語を話すと思われるが、柴静が中国大陸の人なので、全編中国語でのインタビュー。
インタビューなので実際の動画は柴静の質問に李さんが答えるという形なのだが、長いので、李さんが答えた内容を要約して紹介する。
火災発生時の状況
11月26日午後2時51分、マンションの前を通りかかった人が火災が発生したばかりの様子を撮影している。
李さんは火災が発生した棟の2階に住んでいた。マンションの監視カメラの映像には、警報を鳴らそうとしたが作動せず、周辺の部屋のドアを叩いて避難を呼びかける住民の様子が残っている。李さん自身は、子供を連れて外出していた妻からの電話で火災を知った。当初は「誰かがお湯を沸かして火を消し忘れたくらいかな」と軽く考えていた。警報もスプリンクラーも一切作動せず、管理室からの危険を知らせるショートメッセージもなかった。
8棟のマンションには4500人が住んでいたが、警報は一切鳴らなかった。
李さんは妻からの電話の後、玄関ドアを開けると真っ暗で何も見えず、逃げられないと判断してすぐに閉めた。
火災を拡大させた要因
マンション全てに組まれていた竹の足場、保護ネット、発泡スチロールの板が全て燃えた。保護ネットは本来防火機能を持つべきものだったが、質の問題で可燃材料となっていた。発泡スチロールの板は全ての家の窓に貼られており、2024年の外壁修理時からずっと貼られたままで、住民は光も風もない状況に置かれていた。
李さんは妻に「なぜこんなふうに窓に貼るのか。外も見えないし、閉じ込められているみたい」と不満を漏らしたことがあった。妻は「ガラスを守るため」と答えていた。
防災訓練も実施されていなかった。
最終的に李さんが助かった理由のひとつとして、李さんの家の窓には発泡スチロール板が貼られていなかった。2階の工事が一部終わっており、板が取り除かれていたためだ。発泡スチロールが貼られていた窓は熱で割れ、割れるとすぐに家の内と外が同じ状態になって燃え広がった。
脱出を阻んだ状況
玄関から出られないと判断した李さんは、2階から飛び降りることも考えたが、上階から竹など様々な燃えているものが落ち続けており、地面にはそれらが1メートル以上堆積していた。地面は一面火の海で、停まっていた車も燃えていた。飛び降りれば尖ったものに刺さる危険があった。
窓から消防員の姿は見えたが、大声を出したり携帯の光を照らしても全く気づいてもらえなかった。爆発音や竹が燃えて割れる音、落下物の音が続き、「戦場のようだった」と李さんは振り返る。
他の住民を助けようとした経験
午後3時過ぎ、廊下で人の声が聞こえ、李さんはドアを開けた。濃い煙で涙が流れた。
一度開けて逃げられないと判断した扉をなぜまた開けたのか、と聞かれた李さんは、孤独感から逃れたい気持ちと、極限状態で仲間を求める心理だったのではないか、と淡々と語った。玄関を出て真っ暗な中、壁づたいに歩き、体に触れた瞬間にその声の主である夫婦を引っ張って自室に連れ戻した。
夫婦は見た感じ60歳から70歳くらいだった。
夫婦は、外で外国人の使用人が「おばあさん、おばあさん」と叫ぶ声を聞いたと言った。李さんはもう一度探しに行きたかったが、外は真っ暗で方向感覚もなく、もう一度ドアを開けることができなかった。李さんは今もそのことで自分を責めている。
多くの人が「あなたのせいではない。」と言ったが、李さんは「でも私は助けようとはしなかった。なぜならまたドアを開けることはなかったから」と自分を責めた。最も辛い時間は、そのおばあさんが亡くなったと判断された午後6時だ。李さんが逃げた時間は午後5時、もしその前におばあさんを見つけ出すことができたらおばあさんは死ななくてすんだからだ。
この建物の住民の3分の1は65歳以上の高齢者で、多くが外国人の使用人に頼って生活していた。彼らも多くが深刻な被害を受けた。亡くなったそのおばあさんのインドネシア人の使用人はおばあさんと最後まで一緒にいたという。そのインドネシア人の女性は勇敢だったと李さんは語った。
おばあさんの子供は李さんの伝えた自分の母の話を知り、メディアを通じて「母の最後の時に誰かが一緒にいてくれたことを知ることができました、母の死を一緒に泣いてくれる友達(李さん)がいることに感謝をします」と述べた。
絶望的な状況での判断
午後4時、火が家の中にも迫ってきた。外にいる妻に飛び降りられるか聞いたが、地面は火の海だと言われた。1階の出口に駆け下りることも考えたが、助けた夫婦が1階の出口はいつも鍵がかかっていると言った。本当に鍵かかかっていたかどうかはわからないが、自分の生命をかけてそれを確かめることはできなかった。
母親から電話がかかってきた。李さんは何事もないよう装い「大丈夫だよ、すぐに助けがくるよ」と言って電話を切った後、涙が流れた。消防員は見えていたが、高層階に水をかけるのに必死で、李さんたちには気づいていなかった。3人は交代で外に電話をしたが、みんなの答えは同じ「待って」だった。エレベーターは全て停止していた。
夫婦との時間
李さんは夫婦を慰め、「今日は絶対に死なない」と言って部屋の奥の最も煙の少ない場所に案内し、水を与え、充電式扇風機をつけた。李さんは心の中で逃げることばかり考えていたが、夫婦を置いていくわけにはいかなかった。「知らない人でも知っている人でも、自分の目の前で人を死なせることはできない」と李さんは考えていた。
最後の時が来たと思った時、友人に「子供と妻を頼む」とラインでメッセージを送り、真っ暗な部屋の写真を送った。妻には電話しなかった。衣服に火がついたら別れを告げようと考えていた。
午後4時半、煙はどんどん濃くなり窓は赤くなってきた。李さんは服と靴を探し出し、寝巻き姿の夫婦に着替えさせ、帽子もかぶせた。「最後の時が近づいている。ガラスが割れて外の火が中に入ってきた瞬間に、外に飛び降りよう」と夫婦に告げた。
救助
3人は呼吸困難になりながら必死でガラスを叩き、ついに1人の消防員が気づいた。李さんは手振りでホースを部屋に向けるよう指示し、火の勢いは少し引いたが、消防員の梯子は竹の足場に邪魔されて届かなかった。「この時が一番絶望の瞬間だった」と李さんは言う。ついに気づいてもらえたのに救助できない状況だった。
階上も階下も火がついた中、梯子車が危険を押して来てくれた。李さんは夫婦に先に行くよう言った。「もともと助けたのだから、置いていく理由もない」と。夫婦が行って数分後、梯子車が再び来てくれた。
李さんは体を傾けて窓を越え、竹の足場を跨いで梯子車に乗った。乗っている間、頭上ではずっとものが落ちてきた。消防員はしゃがんで頭を抱えるよう指示し、降りる間ずっと水をかけ続けた。李さんは冷たさで震え、不思議な恍惚感を覚えた。
李さんは梯子車で運ばれている間思った。
世界中で雨が降っているように感じられた。けれど、なぜ雨の中に火があるんだ。こんなにたくさんの火が。世界が止まって静かになっているように感じた。
自分はとても幸運だ。こうして梯子車で助け出されている。でも同時に運悪く上から落ちてくるものにあたって死ぬかもしれない。
移動している時間は、家に閉じ込められていた時間よりも長く感じられた。(戦場のような音であふれていたはずなのに)何も聞こえなかった。
救助直後
無事救助された後、妻に無事を伝え、最初にしたことは振り返って燃えている自分の家の写真を撮ることだった。自分の家へのお別れの意味だったのかもしれない。
多くの人は、「命が一番大事だ」と言う。家も物もまた買えばよいと。でも多くの物はそれぞれの物語を持っている。李さんもそれらの多くのものと心の繋がりや思い出がある。
李さんが救助時に持ち出したのは、パスポートと子供が遊んでいたiPadとスマホ、妻の腕時計で、自分の物は身分証も財布も忘れた。
妻と子供はマンション隣のマクドナルドで待っていて、李さんは煤で真っ黒な体で入っていった。子供たちは「パパが生きてる、パパは死ぬわけない」と喜んだ。子供がゲームがなくなった、パスワードもアカウントも忘れちゃったと言ったので、iPadとスマホを出したら「パパすごい」と喜んだ。
李さんは「自分の物を持ち出すことはすっかり忘れてしまったけれど、最後に何を持って出ようと決めたものは正しかった、子供たちが大事だと思っている物は持ち出すことができた」と思った。
妻とは、抱き合うと言ったことはなく、ただ目でお互いに通じ合った。「無事でよかった」とにかくそう思った。
これから。今一番ほしいもの
夜になり、自分がふらふらすることにやっと気がついた。重症の人と救急車を争う気にはなれなかったので、友達の車で離れた病院に連れて行ってもらった。
日が変わり翌朝の午前3時、病院で輸血をしてもらった後で看護師に「家に帰りますか?」と聞かれて、自分には家がないことを思い出した。
病院から戻って、宏福苑の近くまで来て、今度は少し遠くから8棟全体の写真を撮った。火がやっと消し止められた後の廃墟だった。
その建物を見た李さんの心は冷静だったけれど、とても空虚な気持ちだった。
宏福苑は40歳の李さんが生まれ育った場所だった。李さんの子供たちも生まれ育った場所だった。この2日間で、李さん家族は3回家を移った。
子供達のおもちゃは一つも持ち出すことができなかった。下の女の子は、持っていたぬいぐるみがなくて寂しがった。今の李さんはいくらも持ち合わせがないけれど、IKEAのぬいぐるみは安いので一つ買ってあげられた。
今李さんがほしいものは着るものや食べる物ではない、なぜなら自分にはまだ力が残っている、生きる能力がまだある。李さんは、食べ物をもらうために並んだりしたくないし、自分を不運な人間だとも思いたくない。
今一番ほしいものは、なぜ火事は起こったのかを知ることだ。誰か教えてほしい。
亡くなった人たちのために責任を取るべき人たちがいるはずだ。
李さんは、以前は(宏福苑の)もっと高層階に住んでいた。その階に住んでいた人たちとはみな連絡が取れていない。その人たちは、生きているのではなく、かと言って亡くなったのでもない、(燃えて)すっかり消えてしまった。李さんはいつもその人たちのことを考えている。
なぜならその人たちは李さんが子供の時から李さんのことを見ていた。正月はお金をくれたし、母親が仕事でいなくてお腹が空いた時などはその人たちの家でおやつをもらったりして育った。その人たちの子供達と一緒に自分も成長して社会に出た。そして結婚して自分も子供を持った。
自分の人生の全ての過程で、その人たちとの関わりがある。近所の人というのはそういうものでしょう。李さんは語った。
でも今は、その人たちとの写真もない。頭の中でその人たちの姿を思い出すしかない。
(李さんは、インタビューの全てで柴静から聞かれたことを淡々と答えていたが、最後にいなくなってしまった隣人のことを語ったときは静かに涙を流し続けていた)
宏福苑の火災は、700人の消防員と100台以上の消防車が出動したが全然足りなかった。多くの人が炭になるまで燃え、識別ができないほどになった。1人の消防員も煙を吸って亡くなっている。